日曜日の朝、テレビ(『ボクらの時代』フジテレビ)を見ていたら、
芸能人のいとうあさこ氏が話していました。
一言一句正確ではありませんが、概ね下のようなお話。
この間、エスカレーターで学生二人組とドンとぶつかりそうになったの。
そしたら相手が(驚いた仕草をしつつ)「うわ~ビックリしたかと思った!」って言ったのよ!
若い子の言葉の文化変わったなと思って。
なんだかとてもおもしろい話だなと思いました。
マルハラと根っこは同じ?
今年に入ってから、一時期、マルハラという言葉が世間をにぎわせたことがありました。
(こちらの記事に書きました)
簡単にまとめると・・・
ライン等のメッセージで、最後の文末に句点「。」(いわゆる、マル)をつけると、相手は怖く感じるそうです。上から目線のような、反論を許さないような強い断定表現に感じられるため、受け手に対するハラスメントになるんだそうです。
アラフィフの私はそれを聞いて、「はあ?なんだそりゃ」と思いました。
・・・が、よく考えてみるとこの断定表現を避けるというのは、意見の対立を避けようとする日本人の習性(日本社会では昔から「和」が重視されてきました)と関係あるのかもしれません。
そして周囲を見ていると、こういう傾向は今、若い人にほど顕著だと感じます。
で、今回のいとうあさこ氏の話を聞いて、「ああ、これも断定を避けたがるアレかな」と思ったのです。(ちなみに、いとうあさこ氏も私もアラフィフ、ほぼ同世代です。)
「ビックリした」は素直な感情表現なのに、(ましてやいとう氏とぶつかりそうになった本人は一度しっかり驚いたリアクションを取っていたそうですから、確実に驚いているはずなのです)、
ここに「かと思った」をくっつけることで、スパッと断定することを避けているんだろうな、と。
感情表現まで断定を避けるのは何故だろう?
それにしても、なぜ自分の感情表現まで断定を避けるのか…
自分の発言に対する責任や批判を避けたいのかな?
「かと思った」という表現をわざわざ付け加えることで、その感情を相対化するというか…
「絶対的なものではなく、柔軟性のある言葉だからね、本当はビックリしてないかもしれないんだからね!だから批判しないでね!」ってこと??
それとも自己主張を控えめな表現にすることで、その言葉の聞き手に対して、
自分の感情を押し付けないように(過剰に)配慮しているのかな???
また、もしかしたら、いとう氏にも「驚かせてしまった」という責任を押し付けないようにする一つの工夫なのかも????
・・・すべて想像に過ぎませんが、いろいろ考えました。
「正解」のない(見つけにくい)世の中を生きる若者たち
話が飛ぶようですが、日本の若い人たちは今、ただ一つの正解の見つけにくい時代を生きています。
私達が若かった頃はもっと単純でした。
大多数の人が、そんなに多様化していない価値観の中で、同じとは言いませんが非常に似かよった道を「正しい」ものと信じて歩こうとしていたように思います。
が、バブル崩壊やら何やらを経て「正しい」と思っていた事がそうでもなかったことを目の当たりにし、今の世の中は当時よりずっと複雑で不確実なものになったなと感じます。
価値観も多様化しました。
そういう世の中で、いろんな面で「断定」を避けながら生きるのは一つの処世術になっているのかなあ・・・
なんて勝手に想像しました。
・・・あ。
一つ思い出しました。
私もたまに使ってしまう表現。
私これ、好きかもしれない・・・
この言葉を言う時、私はもう、ほぼ好きです。
なのに断定しないで言うことがあるのです。・・・これは・・・なんでだろう?????
最後に一冊、本を紹介します。
お笑い芸人千原ジュニアさんの『大J林』です。
この中に、あるお店に入った人が店内をしばらく見た上で「おれ、好きそ~」と言う場面が出てきます。千原さんは、既に店に入って実際に見ているのだから「好きそう」じゃないだろ、と突っ込んでいます。
この「~そう」というのも、断定をうまく避ける言い方として使ってしまったのかな、と思いました。
この本は、千原さんならではの独特な視線や感じ方がいたるところに出てきて、非常に面白い本です。ぜひ一度お読みください。
『大J林』千原ジュニア著 (扶桑社)
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